112 分からないの壁
ゼミの仲間が書いたエッセイを読んだ。
自己肯定と周りからの抑圧の話。
最近の啓蒙書の傾向から言えるように、「自分を大事に」「自分を大事にできない人に他人を大事にすることはできない」系は流行ってる。且つ、『うっせぇわ』がヒットしたことからもわかるように、周りからの同調圧力に屈しない存在は、昨今カッコイイと位置づけられる。
今回のエッセイも、それ。
流行りをなぞりつつも、そこにオリジナリティを見出す作品だった。
もちろん、文体としてのオリジナリティはあった。蓋をすることを放棄した感情の吐露は圧巻で、私にはなかなか書けないな、と思う。
でもしかし、見逃せない思想というのも紛れている。
「わたし、あの子(me)の○○なとこ嫌いなんだよね」と、陰口を言われたとする。
私なら、そっか、違う世界で生きていこうね。となる。かかわり合うことは、お互いにとって不利益。私が仮にあなたの事を好意的に思っていたとしても、あなたが銃口を向けてくるなら(向けなければならないなら)違う世界で生きていこう。お互い死なないように。
一方、エッセイの主の回答は、こう。
「気に入らない私でごめんね。でもこれが私」
因数分解すれば、言っていることは私と違いないのかもしれない。でも私は、このスタンスを知って、この人とは上手くやれないかもしれないと思った。ごめん、と言いはするけれど、私を譲る気は更々ない。陰口を言った言われたという事実だけが付与されて、棘は残ったまま。これではどちらが自尊心を維持できるかの力較べになってしまう(エッセイ主は自尊心比べで勝てる勝機がある人なんだろう)。
私とあの人の間には、分からないの壁がある。これはなかなか手強い。なにせ、生き方に関する「分からない」だから。
ところが、この先ぽっと出のところで心が通じたり、とんでもなく楽しい気持ちになることもあると思う。その時は、分からないの壁を超えて手を繋げるはずだ。
そんなふうに壁は出たり消えたり迫ったりしてくる。その気まぐれに、人と人とが知り合う楽しさがある気もする。
ゼミはまだ始まったばかり。
卒業制作をする頃には、壁を私たち自身で押したり引いたりして、シーソーのように楽しめるものになっていたらいいな、と思う。
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