絶え間なく透明に流されながら
くどうれいんさんのトークショーに参加した。
くどうさんは『氷柱の声』という作品で芥川賞にノミネートされた人だけど、イメージによらず私と歳も近いしテンション感も若者って感じだった。作家、というより、文章の上手い気さくなお姉さん。
私は本気で商業作家になりたいとか思ってるわけじゃない。人生でで1冊でもバーコードが着いた自分の本が出れば幸せだなぁと思うくらいのもの。本気じゃないの。だから、コンクールとか賞とかに応募しない、してない。
なんとなく、今のゼミの勢いとか、周りの人達を見ると、その姿勢を後ろめたくなって。
一人暮らしまでしてるのに、望みが低いぞって自分でも思ってて。
だけど、くどうさんは「書ける自分でいるために書いてる」「たまたま出版社と仕事をしているだけ」と言ってた。
または、作家という職業って無い、とも。社会不適合だから作家になるしか無かった、なんてお話はお話でしかないって。
自分のために書こう。
私が私を留めておくために書こう。
そう思った。指の間からこぼれていく、私の今のときめきを宝箱に入れるように、文字を並べよう。
あとひとつ心に残ったのは、理不尽に取り上げられた未来に対して怒っていい、ってこと。
くどうさんの場合は震災だった。震災によって、あるはずのただの青春が「頑張ろう東北」とか「希望」とかっていう文脈に入れ込まれていって、でもそれに異論を呈することは出来なくて、透明な手に頭を撫でられて押し込められていくような。
私たちは、コロナ。コロナによって出来なかった引退公演、文化祭の焼きそば、卒業旅行、普段の写真もマスクだらけ。その様子を、ただ受け入れなくていい。怒っていい。いっせいに私たちが来なくなった教室に思いを馳せて泣いていいんだって、言ってくれた。
この時代の当事者であることからは、誰も逃れられない。今生きているからには、コロナもウクライナの戦争も阿部さんのテロも円安も、遠い話のように思うけれど当事者なんだ。「遠い話だなあ、関係ないなあ」と思っている、という当事者なんだ。
別にそれを背負って生きていけというわけじゃない。しかし、目を背けないこと。
くどうさんにサインも貰った。かわいい字体。
明日からは中学の友達が遊びに来る。
おとまりだ!
たのしみだな。
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