映画『窓ぎわのトットちゃん』感想

原作『窓ぎわのトットちゃん』には少し思い入れがあったこととどうやら面白いらしいというウワサを聞いたので行ってみた。
小学生のころに当時1番好きだった先生が時間を見つけては朗読してくれたのが原作だった。その頃まだ私は本を面白いとは思っていなくて退屈していたんだけれど、先生があまりにも気持ちを込めて読むものだから雑に聞くのは可哀想だと思ってそれなりに聞いていた。映画を見るにあたって内容を思い出そうとしたけれどそこまで覚えてなかった。まあでもそんなトットちゃんがある日々が小学校の思い出として残っているわけで。あの先生今どうしてるかな。



映画の感想はと言うと、総合評価はすごく高い。いいものを見た気分。しかし時間をかけて咀嚼するとあれはちょっとなと思う部分はあるし満点とは言えない。

①音響とか画面とか
音響というか音周りがとても繊細に作られていて感動した。電車教室に初めて入った時の環境音の細さ(ふふー、ほー、みたいな鳥の鳴き声)でこの映画の作りの細さは確信したし信頼していいと思った。
お父さんの職業や小林先生の教え、子供なりの大きな物語への対抗策などなどことある事に音楽(音)が大切になってくる故の繊細さなのか、トットちゃんの感性で聞き取っているものを観客に追わせようとしているのか。

アニメーションとしても遊び心に溢れていて見ていて飽きない。ショートアニメパートはしっかりと心情に合っていて印象に残るようになっている。泰明くんが傘を拾えないあたり、丁寧すぎるほど丁寧だしだからこそ残酷さが際立つ。

②鋭すぎる反戦
泰明くんの死からの流れは感動とともに反戦メッセージをでかでかと突きつけてくる。これはちょっとズルだ。反戦というもののゴジラマイナスワンのようなそれからの発展性はなく(原作ものであることを考慮するなら仕方ないとは思う)ただ日の丸に嫌悪感を示すように、と誘導されているように感じる。しかしその提示の仕草一つ一つは鋭すぎるし真剣すぎる。トットちゃんと逆方向へ走っていく元気な少年。黒柳徹子の人生がどんなものであるかは私はまだ知らないし真に逆方向へ走っていくような人生なのかは分からないが、演出として観客を刺しすぎだと思う。

この映画は十分『この世界のさらにいくつもの片隅に』と並べて語っていいものだと思うしそうすべきとまで思う。私はあの作品がとても好きなので『トットちゃん』を見ている間もチラチラと心の中で『この世界の』と照らし合わせていたのだけれど、同じところも違うところもあって面白かった。比べて大きな差は北條家は軍で働いて稼いでいる家なのに大して黒柳家は軍のためにバイオリンを弾かない決断をしたところだろう。『トットちゃん』の戦争の加害性にまで踏み込まない姿勢を黙って頷くのはどうかと思うがここで作品としての戦争との向き合い方がはっきり違うことが分かる。
(浦野すずはキャラメルを買うことをかなり躊躇するのに黒柳徹子は自販機で慣れた手つきで買おうとするんだよな、はァ)

③細すぎる
校長先生が椅子に座る時にズボンを手でちょっと上げてから腰をかける描写がある。びっくりした。細すぎないか?! でも実際にやるしな……。どうしようもなく細かい。こういう細かい描写が至る所にあって、キャラクターはデフォルメされているのにリアリティを感じる。特に泣きの顔を勇気を持って崩す姿勢が私は好きです。
黒柳家の朝食のシーンなんかはまさにそれで、見たことの無い形のパン焼き器が食卓に鎮座している。配達の牛乳とパン。彩り豊かなサラダと今日の天気を伝えるラジオが当たり前にある。火なんかガスでしたよ。北條家はかまどなのに…。
街の様子に対する描写もすごく素直で、色がなくなっていく様子が怖く感じた。歌を兵士に注意されるシーンでも兵士は校長先生や両親と同じでちゃんとしゃがんで目線を合わせてから歌を咎めている。細かな描写が時に残酷で苦しい。

その他書くとするなら泰明くんは最後に何とトットちゃんに声をかけたのかとかお父さんとお母さんがラブラブすぎるとか小林先生がその後どうなったのかが気になるとか「弱さ」に関してその書き方でいいのかとかだろうか。
冒頭とラストに今の黒柳徹子のナレーションが入ることによってあの時代を生きた人がものすごい大金を出資して今この作品を作ろうと思った、ということを提示してくる。やっぱり(証言を十分に取り入れているにしても)戦後生まれが作った『この世界の』とは訳が違うし、中立性を欠いていること自体が意味を持つ気もする。

一概にいいとは言えないけれど見られるなら見とけとは思う。私は好きな作品でした。

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