とみなが くるみ
噛み切れない現実に気付いた時にはもうどうしようもなく、息苦しいと感じるということは開放された場所にいたという証左に他ならないのだが、穴に埋めた青さに髪を引かれるこの、虚しさよ。しかし、こうして長く気持ちを書き連ねる今の私があなたに決して望まれていないことは自明であるから、この縦に並ぶ文字たちを暖簾のように掻き分けてあなたに会いに行きたかった。なんたる不自由! 不自由よ。
この期に及んで、私はまだ詩人だった。
クラフト紙に走らせていた鉛筆を止め、はぁ、と息をつく。春が終わっていく。まだ二月だけれど。終わっていくのは人生の春。青い春。
卒業してしまうのだ。あの人がこの暖かな檻から飛び立ってしまうのだ。私も一緒に出ていきたいのに、あの人は十八で私はまだ十六だった。お母さん、どうしてあの人と同い年に産んでくれなかったの。こんなの、理不尽よ。私はあの人がセーラー服を脱いでしまうところを、ただ嘆いて詩を書くことしかできない。ううん、私は、詩なんか書いていないであの人のいる美術室に今すぐ駆け込むべきなんだ。迫り来る卒業式に容赦は無い。手帳を開く。赤マルをつけてあるその日まであと三日だった。
あの人はいつも美術室にいる。大学も絵の推薦で受かったらしい。私は文字を操ることに自信があるのに、あの人の絵の前では文字が言うことを聞かなくなる。硬直してしまう。その旨を言うと、あの人は「いつか自分の絵につけてね、題名」と小さく笑った。そんな無茶な、と思ったけれど、零すように私の口は「はい」と返事をしていて、不思議だった。あの人の前での不自由は心地いい。
ぎぃ、と厚手の扉を開けると油彩絵の具の匂いに包まれる。胃に溜まるような重い匂いの中心にあの人の影を見た。膝下のプリーツスカートとしゃっきりとしたセーラー襟。それらが映える手足の長い恵まれた体躯。ふらり、と影がこちらを振り返る。どうしてなんですか、どうして。違うじゃないですか、ねえ。
「とぎー、やっと来たね」
私の名前を呼んでくれた。
「あと三日しかないからさ。思いっきり好きなの描こうと思って」
そう言いながらもスケッチブックは仕舞われた。私はこの人の「好きなの」の正体を一生知れないのだと理解する。
私があまりにも凝視したからか、バツが悪そうに髪先に手を当てている。この人のしなやかな髪に私は惚れている。惚れていた。だからこそ許せなかった。
「あー、似合ってない?」
「ぜんぜん。あまりにも、新鮮で」
「気持ち切り替えたくて。切っちゃった」
耳が見えている。もちろん、顎のラインも。バスケットボールをしている女の子たちがこぞってしている髪型だ、と思い出す。ベリーショート。線の細い男の子のよう。喉仏は無いし、胸だってあるし、声も柔らかく高い。この人の輪郭が二重に見える。神様、この人からセーラー服だけでは飽き足らず女の子も奪っていくというのですか。違う、違うよ。全ての変化は、この人自身の意思。私が勝手に願っているだけのこと。まだまだ青いな、私。泣きそう。
私を他所にすっと美術室の奥を見据えている。初夏の田園風景を描いた絵がイーゼルに立てかけてある。稲穂の緑に青空が映えている。
「やっとできたの。これさ、とぎーに題名、つけてもらいたいんだ」
「今?」
「今」
「すぐには、ちょっと」
「じゃあ、卒業式の朝までに」
「うん」
「なんか調子悪い?」
「ちょっとだけ」
少し目を伏せる。長いまつ毛が下を向く。
「もうひとつお願いしていい?」
「なぁに」
「名前、呼んで。自分の」
「どうして」
「どうしても」
「呼んだらどうなる?」
「自分泣くかも」
へえ、名前を呼ぶだけでこの人を泣かせることができるんだ、私。勝手に泣きかかってた私と、後輩に泣かされたいこの人。今この時、世界に私たちだけしかいないって気持ちだ。
息を吸って、吐く。噛みませんように。
「とみなが、くるみ」
「はい」
この瞬間、詩にならない。
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