ピンドラ後編初見メモ

ネタバレ考慮無し。
メモ程度なので読みにくさは勘弁。




冒頭、「生存戦略←→存在証明」とあった気がする。要確認。
オープニングは見たことあるけど見たことがない映像。舞い落ちる少女は横へスライドしシルエットの少年は影を破り捨てて自身になる。呪いに囚われた大人たちは呪いの糸を見つめる。炎に包まれる少女は炎を振り切って前へ。手を掴もうとしたが少年たちは離れるもんかと掴み合う。ペンギンは変わらず回る。
恐怖のアングルは健在でした。やっぱり意図があるよねそうよね。
18話終了後に実写映像。東京。眠らない街。国会議事堂が印象的。無言の訴えを感じる。共助だけではどうにもならないこともあるのだという。
私は死んでもいいからあなたに止まって欲しい。だめだ。お前が死んだら俺はこの世界を許さない。回らないピングドラム。
最終話にテレビ版とは違いかなり明るいBGM。ポジティブな印象。(寄り道:95の事件は朝起きたことがわかるが、11では夕方。事件の円を晶馬は絶っている…)ガラスの破片が散らばる世界を陽毬は歩いていく。さながら子供ブロイラーから自分を救ってくれた時の晶馬のように。
蠍の炎を苹果の代わりに受ける晶馬。「ありがとう。あいしてる。」の返答(Re)として「私も!」が新たに追加されてた。愛の循環が行われたことは、今回の題名通り。タイトル回収。
子供の晶馬と冠葉は乗り換え後のふたり。ただし記憶を失っている(前編で語られていたこと)。本を読んで運命の子供たちの話を取り戻して、それでも2人は陽毬の「お兄ちゃん」でいることを選んだ。だから、自己犠牲を払って世界から跡形もなく消えたとしても、「だいすきだよ!お兄ちゃんより」というエゴを最後に残したんだ。これは「僕の存在証明」なんだ。そしてその「存在証明」はそのまま「愛」。愛による死を自ら受け入れた者のご褒美として、あのぬいぐるみは陽毬に届いたのだと思う。3ちゃんがぬいぐるみを持ってダンボールに入ったのは、陽毬の「忘れたくないよ、失いたくないよ」の気持ちからなのかもしれない。
シールでできた荒野は恐らくスタァライトからの輸入では…と思う。もしくは劇場版ウテナの革命後。(構図的にスタァライト説の方が今のところ濃厚) 何も無い荒野、先の見えないフィールドで、さあ何を始めようか。
まさか眞悧の新規ボイスが呻き声+だよね♡だけとは思わなかった。
眞悧は呪いのメタファーだから、肉体を持たない概念体。だから何度でも子供たちを呪いの中へ引き込もうとやってくる。桃果の赤ちゃんペンギンを乗っ取ってでもやってくる。
だけど桃果も同じように概念体であり、こちらは愛のメタファー。呪いが何度でもやってくるなら、愛だってその都度やってくる。愛と呪いの狭間で、私たちは愛を回す。
ペンギンだって空を飛べる。きっとね。
運命の子供たちは、果てしない宇宙を背に「愛してる」と言葉にする。それはきっと観客に向けたもの。物語の還元。今ここに生きる誰か、「愛してる」が必要な誰かの元に、この愛が届きますように。
どこへ行きたい? じゃあ、明日へ。明日へ、はテレビ版でも今回でも言われなかったけど、きっと変わることなく「明日へ」だと思う。
EDは「少年よ我に帰れ」。英題だとboys, come back to me.で、恐らくboysは晶馬と冠葉。meは陽毬。だから潮干狩りで迷子になったあの日の陽毬の元に、運命の子供たちの晶馬と冠葉は帰っていく。何度でも。
人類がみんな荻野目苹果になれればいいね。
ユリ熊嵐までの幾原邦彦作品ってロジックの上でなるようにしかならない、だからこちらに行く、という面が大きかったと思うけれど、さらざんまいを経てなるようにしかならないことへのアンチ、すなわち「泥臭さ」「この未来を望む」という気持ち、が大切にされたと思う。今回もその延長で、ロジックの上の物語だった輪るピングドラムの裏側では、運命の子供たちの「泥臭さ」があった。陽毬のお兄ちゃんとして陽毬の中にいたいというエゴがあった。幾原邦彦の方向転換が伺える。
桃果は全てを救う神様じゃない。桃果だって「選ぶ」。子供ブロイラーにいる全ての子供を救う訳ではなく、多蕗を選ぶ。

再検討必須点
モチーフがペンギンということの意味性
ペンギンズのいる理由
音符
シールの砂漠

ブルーレイ今日発売しろ。

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