fall out of step

ハナは17歳だけど、もう男の人とベッドに入ることを日常としている。彼女の話を聞いていると、次々に男の人が出てきて目まぐるしい。三丁目のカラオケの横にあるホテルは寝心地がいいとか、やたら男の人って髪を触りたがるのよねとか、ホテルのハニトーをナメちゃいけないとか、ハナと同じ17の私は知らないような事をつらつらと並べる。放課後。
クラスで人気な女の子たちはハキハキ喋ってよく笑う、男の子が言った冗談にもしっかり笑ってあげるような、そんな子だった。そんな子には大抵男の子がいた。ショッピングモールを手を繋いで歩いたとか男の子の唇って思ったより柔らかいんだねとかもうすぐベッドまで行きそうとか、昼休みや放課後のネタに丁度いいらしい。
ハナはそんな女の子たちとは違って、教室の端っこで本を読むような子だけれど、男の子と寝る。休みの日になれば先生に隠れて開けたピアス穴に金属を通すこともしなくば、爪の先を石で飾ったりもしない。ただ小学生の頃に必死に結ったミサンガみたいに、手首に巻いた金色の細いブレスレットを大事に大事にしているだけで。彼女の細く猫っ毛な髪を耳にかける仕草をする時しか姿を表さないブレスレットは、今愛している男の人に貰ったらしい。
ハナは休みの日は手紙を書いている、と言った。前に一度その手紙を見せてもらったことがあるけれど、灰色の点線がひたすらに前ならえしてるような質素な便箋だった。「情熱的な言葉で飾るから、便せんは質素な方がいいの。」と封筒に紙を収めながら言う。封筒には私の知らない男の人の名前が、ハナの癖のある字で書かれていた。
ハナは自慢をしない。でもそれは単に見せびらかさないだけ。大切なものは最後に取っておく。誰にも触られないように、鍵のついた宝箱に入れてそっとしておく。ほら、あるじゃない。YouTubeで見つけた駆け出しのすごく素敵なバンドって、何故か共有ボタンでTwitterのフォロワーに教えようとは思わないじゃない?それなの。好きな物は独り占め。再生回数は増えなくていいけど、新曲は欲しいみたいな、あれ。

「ハナみたいに男の人を好きになってみたいな。」

ぶっきらぼうに私が言うと、

「私は私の恋をしてるだけ。私を教科書になんてしなくていいの。」

と、返してくる。しかし私にはハナの恋が正しく思えた。クラスの女の子とは違う恋だ、と直感的に思っている。よく恋は甘酸っぱいと言うけれど、恋は迷わず飲む不幸の薬だ。甘いわけがないでは無いか。
ハナという女の子は、それを知っている。不幸の薬であることを知りながら、ごくりと飲み込む。クラスの女の子達は不幸の薬だということを知らずに飲んで、「ああなんて酸っぱい、でも甘い時もあったかも」と錯覚する。自分の微熱のような恋を正当化しようとして、甘酸っぱいなんて言い方をするのだ。ハナと女の子達とは、決定的に違っていた。

「あなたも、今にも見つかるはずよ。こうやって手紙をしたためたくなる男の子が。」
「どうだろう。わからないのよ、男の子の良さって。そういう言い方をすれば女の子が好きなのかと思うかもしれないけど、そうでも無いの。というか好きってなんなのか、私には分からない。」
「私にだって分からない。」

ハナはキッパリと言った。
友達に貸してもらった少女漫画の主人公たちは、男の子に恋をする。誇張されて大きい瞳をもっと大きくキラキラさせて、その色づき始めた桜のように頬を染めて、男の子を想う。告白の瞬間や手を繋いで歩く姿を妄想しては、声にならないピンク色のため息を漏らすのがお決まりだ。少女漫画を恋の教科書とするならば、そういう妄想をしたいと思う対象が、好きな男の子ということになる。ヴァレンタインを毎年渡す男の子はいるし、反対に、私に好意を寄せてくれる男の子だっている。でも、どの男の子とも手を繋ぎたいだなんて思わないし、ヴァレンタインのお返しがなくても何も気にならない。

「まだ引きずってるの?」

ハナは眉を下げて、真っ直ぐに私を見てくる。色素が薄いから、その瞳の中心が私をしっかり捉えていることがよく分かる。ハナはクラスの女の子達には見下すわけでもなく、ただ冷ややかな目線を向けるばかりだが、私にだけはこうやってしっかりとした熱を送ってくれるのだ。私とハナの関係は友達ではなかった。かといって親友と呼ぶには近すぎる。恋人ではもちろん無い。しかし、私たちは私たち2人きりの、この冷めた放課後のお喋りが好きだった。

「あんなことがあれば、こうなってもしょうがなくないかな。」
「でもなるべくしてなってるんだから。あなたはあなただし、ご両親はご両親だし、もっと言えばお母様はお母様、お父様はお父様よ。」

私の両親は、半年前にお互いに背を向けた。私はその時になるまで、2人の亀裂に気づけなかった。2人の座るダイニングテーブルに招かれ、ドラマの裁判官が判決を言い渡す時のような重々しい父の声が告げる。「お父さんとお母さんは別々に暮らすことにしたんだけど、お前はどうする?」
私という存在は、言わば2人の愛だと思っていた。愛しているから共に居て、愛しているからベッドを共にし、愛しているから私を産み落とした。この2人でなければ私は私でなかっただろうし、そもそも存在すらない。私は愛だ。愛だ。愛。2人が身を重ね私を存在させた時、どんなに美しくシーツの海がうねっただろう。どんなに美しく母の髪はその海に散っていただろう。一人娘である私は、これまで何一つ不自由なく17年という月日を過ごしてきた。それは私が私という存在である前に、私は2人の愛だからこそ与えられた幸福だと、信じて疑わなかったのだ。
実際のところ、私は愛でもなんでもなく、ただの子供だった。愛は地球を救うとかいう24時間テレビのキャッチコピーに惑わされた、井の中の蛙だった。私という自我は、2人が居なくなっても崩壊しなかった。しかしどこかが、着実に、崩れていく。依然として私はあまり大きくはない胸と、無駄に発達したふくらはぎを保っている。他、自身の体を触ったとて異常はない。何かが壊れていく、その感覚だけを残して、その夜お父さんは家を出ていった。翌日お母さんと2人で家の掃除をしているとお父さんのへそくり5万円が出てきた事も、お母さんはパート仲間との笑い話にしたらしい。
2人の人間が下半身で繋がって、出来た子供は愛じゃないというのか。どうせ下半身で繋がろうがWiFiで繋がろうが人は1人だとでも言うのか。無惨なものだな、と私は思った。
だから正直、もうすぐベットまで行きそうと声を潜めて話す女の子のことは、よく分からない。ベットまで行くことは決して愛の証明ではない。愛していなくともお互いの体を求めてベットで体をくねらす事はよくあるらしいし、この歳くらいの男の子のベッドの誘いは大抵がそれだと聞いたこともある。
私がその旨を正直に話すと、ハナはうすらと笑ってみせた。「やけにあなたは期待してるのね。」

「本当に相手のことが好きな純愛は世界中どこを探しても見当たらないわ。相手のことが好きな自分が好きだったり、世間体を気にして好きだと言ってみたり。色んな愛のカタチがあるけれど、1番わかりやすく相手の愛を感じられるのが、ベッドという場所だってだけ。」
「ハナの男の人への愛は本物じゃないの?」
「本物にしていくのよ、今からね。」

ハナの男の人は、車持ちらしい。どこで知り合ったとか、有名人なら誰に似てるとか、普段何をしてる人なのかとか、そんな事は私は知らない。ただ一度、学校まで車で迎えに来たのを見かけたことがあるだけで。車の硝子越しに彼を見つけたハナは、小さく跳ねた。持っていた傘の柄をより一層ぐっと握って、口角を静かに釣り上げた。熱い視線。淀みのない真っ直ぐな支線が、彼に注がれていた。

「ねぇ、ハナは今まで何人の男の人を知ってるの?」

私は尋ねた。どれくらいの人数を経験すれば、この子供じみた考えから脱せるのか、私は知りたかった。
ハナはうーんと唸りながら頬杖をつく。その時に見えたハナの爪には、落とし方が悪かったのかもしれない、赤いエナメルが残っていた。昔はお洒落なんて気にも止めなかったハナなのに、やっぱりハナは大人になろうとしている。

「忘れた。」
「初めての時ってどんな感じだった?」
「それも忘れちゃった。」
「嘘よそんなの。女の子の初めては何より大切なんでしょう?」
「誰が言ったの、そんなこと。」

私はたじろいだ。そんなこと誰も言ってはいないから。私の中に生成された、当たり前の認識だったからだ。私が返答に困り目を右へ左へとしていると、読み取ったのだろう、くすり、と、ハナは笑う。

「もうその反応が全てなんじゃないの。男の子なら抱いた女の子の数は勲章だけど、女の子は違う。そんなのおかしいと思うわ。1人愛せば純愛だけど、3人4人愛せばコメディよ。経験が増えれば増えるほど女として出来てるとか、男として良いとか、そういうの辞めよう、ね。」

そして、ハナは付け加えた。

「私ね、本気で愛した人の単なる人生の香り付けをするエッセンスにはなりたくないの。」

そう言って、ハナは彼に貰ったという金のブレスレットに軽くキスをした。茶色い彼女の瞳が、ブレスレットと同じ色の光を、放つ。


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端的に言えばそれから3ヶ月後、ハナは学校を辞めた。呆気なかった。
「学校、辞めちゃおっかな」。カナは自身の親より先に、そんな軽い口調で、私に告げた。夕日の差し込む、いつもの時間に。

「どうして?」

私は至って冷静に言葉を返そうとした。でも語尾が震えてしまう。なぜ、どうしてって。黒いモヤのようなものが心の中に立ち込めて、全てに覆いかぶさってしまう。大きな病気でも見つかったんだろうか。家にお金が無くなってしまったんだろうか。子供みたいな憶測ばかり巡らせてしまう自分に腹が立つ。ハナは穏やかな顔をしていた。

「赤ちゃんが出来たの。」

私の胸はドキドキした。そりゃあ、男の人と寝るということは、そういう可能性もあるって事、もちろん知っている。学校の廊下にも妊娠した時の緊急ダイヤルが書かれたポスターが貼ってある。年に1度くらい、何年何組の誰々って人が妊娠しただの噂で回ってくる。そんな時私たちは、馬鹿だねぇなんて笑いながら、どこか違う世界の話を聞いたように振る舞うのだ。
男の人と寝て、赤ちゃんが出来た。その事実には微塵も驚いていないけど、それがハナの話だということに、私はうんと仰け反りそうになった。お腹に赤ちゃんができるということは、結婚してお母さんになる準備が出来ている女の人か、馬鹿だねぇと笑われる愛することなんて分かっちゃいない子供の誰かさんに似合うことな気がする。静かな調子で男の人とベッドに入るハナには似合わないと思ってしまった。
それに、ハナは学校を辞めると言ったのだ。それは堕ろさず産んで育てることを意味している。いくらなんでも早すぎる、と思う。それに、私はもうハナのセーラー服が見られなくなることが、とんでもなく苦しかったのだ。

「彼は知ってるの?」
「いいえ。まだ言ってない。」
「早とちりしないでね。こんな事を私が言う時が来るなんて思いもしなかったけれど。」
「私すごく考えたの。真夜中も考え続けた。本当にここに赤ちゃんいるのかなって、検査も数度してみたわ。だけど何回やっても赤い線が出るし、そのうち生理も来なくなった。確かにここに赤ちゃんがいるみたい。」

この、うすら赤みがかった風の吹き込む教室には、ものの10分前まではハナと私2人きりだと思っていた。実際のところ3人だと言うのだ。まだ人の形も成していないような、しかし確かに1人の人間が、ハナの腹に宿っている。

「考えて考えて、考え続けて、その答えを出したのね?」
「ええ。」

ハナに迷いは無かった。真っ直ぐに見つめてくる、視線。あれ?と、思う。違う。ハナの視線は、もっと─────。

「ねぇハナ、説明して。うんと時間がかかってもいい。どうして、子供を産もうなんて思うの。」

不要だ。

「ハナはいいお母さんになると思う。優しいし、冷静だし、何かに惑わされることなんてないし。だからこそ、よ。どうして。」

何を言ってるの。

「……………………ねえ、ハナ。」

私はどこかおかしくなってしまったのかもしれなかった。私自身に赤ちゃんが出来たわけでもないのに、腹の奥底がじんわりとあったかい感覚がある。私の嗚咽のような無意味な問いに、ハナは私を見ながらも私でないものを見るような、そんな目をしていた。
秋の風はこんなにも冷たかっただろうか。室内灯を付けずに、日が暮れて教室が暗くなれば帰る。それが私たちの放課後のルールだった。何時に帰らなきゃとか、そうじゃない。日が暮れて風が吹き込み、カラスが煩く鳴き出せば帰りの合図だ。今の風は冷たすぎる。今の日は明るすぎる。

「鎖よ。」

不意にハナはそう言った。

「不自由って嫌いだった。子供だからとか、女の子だからとか、私だからとか、縛られたくなかった。私の人生に責任を持たない人の言葉なんて、信用して何になるの。私たちってみんな籠の中の鳥なのよね。」

チラチラ、と音がするかと思えば、ハナは右手に隠れていた金のブレスレットを器用に外した。夕日の赤とブレスレットの金が混じりあって、私は何故かその昔お母さんが飲んでいたカクテルを思い出した。

「これは彼が私を縛るためにプレゼントしてくれた。でももういいの。こんなお風呂に入る時に外さなきゃいけないような鎖でなくていい。私はもう、もっと素敵なものを貰ったから。」

ハナは私に手首を出せと言った。言われるがままに左手を出すと、ハナはブレスレットを私の手首に巻き始める。あの時落としきれていなかった赤いエナメルも、今では立派にその綺麗な爪を飾っていることを、私はここで初めて気がついたのだった。

「まだ17なのに赤ちゃんとか、早いってみんな言うと思う。ううん、私自身も本当は早いと思ってるわ。だけど、いいの。」

愛はカクテルのようなものなのかもしれない、とぼんやり思う。苦味、甘み、酸味、色々合わさってコップの中でグラデーションする、あのクラクラするような液体が。
その日ハナはいつものように、日が暮れたことを確認して「帰ろ」と私に笑いかけた。
その三日後、ハナは学校から消えた。
赤色の放課後、私は教室に満ち満ちた私たちの記憶を胸いっぱい吸い込んで、そして。
言葉にするには恐ろしい感情を乗せて、茜色の空に、金色を放ったのだ。

山田詠美「放課後の音符」リスペクト
2020.4.20 執筆

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